仙台支店の、佐々木Ⅱです。
みなさん、仙台史郎って知っていますか。
今日は仙台史郎についてお話します。
本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」
知的障害があり会話能力が低かったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされました。
没後、商売繁盛のご利益がある福の神とみなされ、「仙臺四郎(仙台四郎)」と名付けられてその写真等が飾られるようになりました。
仙台四郎の知的障害には2つの説があって、生まれつきだという説と、そうではなく、7歳の時、花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となり、それが元で知的障害となったという説があるそうです。
その後、四郎は気ままに仙台市中を歩き回るようになり、行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれたようです。
子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。
「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともありました。
店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。
四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという。
そこがまた面白い。
無料で鉄道を利用し、宮城県内の白石や、福島県の福島、白河、さらには山形県まで足を伸ばしていたそうです。
四郎は1902年(明治35年)頃に須賀川にて47歳で死んだとされるが、諸説ありはっきりしたことはわかっていない。徘徊中にそのまま姿を消したという説もあります。
釜山港漫遊中との新聞記事が掲載されたことがあるが、これも事実かどうかはわかりません。
明治時代には、30歳頃の四郎を撮影した写真が焼き増しされて販売されていました。
大正に入る頃に、仙台市内の千葉写真館が「明治福の神(仙臺四郎君)」と銘打ってこの写真を絵葉書に印刷し売り出しました。
この時から「仙台四郎」と呼ばれるようになったそうです。
現在残っている写真は一種類だけ。
この写真に写る四郎は、縞模様の和服に懐手をして笑っており、言い伝え通りに膝を丸出しにしているなど、四郎の人と為りをよく捉えたものと言える。
この写真をオリジナルとして、肖像画家による作品が2つと、鉛筆画が4つあり、それぞれらの複製の段階で細部の違いもできたりしたため、さらに幾つかの版の存在を確認できる。
着物がはだけていないように見える物から、中には膝の奥に男根がそのまま写っているものまで有り、幅広い職種の如何を問わず、彼が福の神として厚く慕われて来た何よりの証拠ともなっている。
江戸時代より仙台では、商売繁盛を願う縁起物として松川だるま(仙台だるま)があり、「七転八起」に因んで8体を並べて飾り、毎年1体を買い求めた替わりに1体をどんと祭等においてご神火で燃やすという風習がありました。
松川だるまは中心部などで開催されていた「歳の市(仲見世)」で買い求めるのが一般的であった。
また、支店経済都市である仙台では、中心部商店街の小売店がテナントビル化し、松川だるまを知らない東京や海外に本拠を置く店子が主に路面店として入るようになり、松川だるまの風習が衰退していきました。
ここに、写真や人形など様々なグッズ展開をした仙台四郎のブームが発生し、仙台における商売繁盛の縁起物の地位が、神棚に並べ場所をとる松川だるまから、店内での置き場所に自由度が高く場所をとらない仙台四郎へと取って代わられることになる。
仙台市内の飲食店では、神棚、レジ脇などに、仙台四郎の写真や置物を見ることができます。
土産屋などでは、様々な四郎人形が置いてあります。
なお、仙台の流行り神としては、他に定義如来と仙台幸子がありますが、定義如来と仙台幸子についてはまた次回ご紹介します!!
仙台支店の仙台史郎は、社長が仙台に来た時に仙台駅から購入してきたものです。
仙台支店も仙台史郎にあやかり、商売繁盛を願うばかりです。
参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%9B%9B%E9%83%8E
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